tadkgwのブログ

おもいっきり

まとめ

アンリ・ベルクソンが脱(虚構の近代)構造と力に効く。人間復興は想像力と生命の営みの立脚点を生存の砦となる陣地で単に消費循環の加速を低投入の持続と理解交流の伝播の文化への束に向かうのが宜しい。構造主義的理解も現状野蛮線審の前では立ち行かない。悲惨絶望を超えて身の周り世直しではない前提からみなおす。ありきたりだけれど地道に歩むのだ。仮に主義主張の覇権争いが覆っても背を向けて地道に歩む文明に目覚めたら、機械を携えて分業の補填を推進するのが覇権の収束で傲慢の決着だろうか。好き勝手にしてるのがいい、さあそんな風なら、どこで何するヒトぞ?ツアルストラ自己流解釈、永遠回帰は記憶のない量子的有機物身体の消滅と生成で時空軸の絶対矛盾の自己同一な記憶体感が喪失の到達、虚無に陥るのも考古学の蓄積に絶望するからだろうでは生の事実を愛するには自己規定の条件の生存の糧を世間の当事者から遠ざかるしかない。お手上げの悲劇から逸脱する前提常識の構造的変革意識の恣意的行動、産業分類の無効へ拘束を通じて遊ぶこと必要な技能を身につける、できれば表現することで理解と共鳴の活動家になる、複式簿記が通貨での操作に過ぎないなら人為的通貨と資源が不均衡なのは当たり前で人口の去勢的削減でその格差を埋め合わせる狂気は逸れるべくして自然へむかうのだ

日本列島造園論

田舎の島のその地域で地産地消移動を抑制近隣交易で自給分業を促進する。オフグリッド再生可能電力で地域の生活基盤を守る。通貨覇権も化石資源戦争も国家広報の虚栄の傀儡が宣ってっても、この不安定の中では文明も文化も住民も劣化するだけだ。造園できるところは市民農園率を上げる最早四季のないココで列島の風土に根ざすには無能な集権的官吏の指導は信用に足りない。所謂生存権の死守というのが線審国のグループで末席にいる田舎の従属地域の死活問題なのだ。大災害と邦貨が紙切れ同然になる迄に。都合のいいような報道ばかりで呑気な同胞ばかりなのか、実にアンテナを張っているものはいないのか?TEDtalkのA New Social Contract for Global Climate Justice |Huma Yusufを観る、明日は我が身、それでも変わられない。とほほついでにNoam Chomsky: Putin, Ukraine, China, and Nuclear War | Lex Fridman PodcastとJeffrey Sachs: U.S. Policy & "West's False Narrative" Stoking Tensions with Russia, Chinademocracy  nowも観た。

ストレス解消

ここはスチレス解消、だから読まなければ荷物にならない。先輩の如き指導鞭撻も公園で遊ぶ近所の子らには遠慮する。自らが遊び仲間でなければ関わってはいけない気になっている。兎角、草枕的自我をはらんでいる。ところで、英国に留学してたころ、ワーキング・クラスやら階級に頓着がなかった。寧ろ別の島の住人として観察的だったのかも知れぬ。それでも同じクリーブランドアートソサエティ結社の参加で共感したりする話に彼彼女らの中にも何故海外に言ったりしたのだろうと古に疑問符がある方々もいたし、造船も日本の造船に驚嘆したりする年配もいた。自動車が非難された後であったところに製造業という分業についての驚嘆で、厳格なそもそもは又別の話なのだろう、その経験主義的人間感にも共感するところもある。違うマトリックス的デフォルメがなくとも虚構の近代は理解の枠組みが違うのだ。クーンを読めと言ってた先輩はどうしてるやら、最早それどころでなく思案もしてられぬよ、しゃらくせいっとかで済ます主人公になるようになる。

自己満足追記 <書評>『第三次世界大戦はもう始まっている』エマニュエル・トッド 著

厭世的であろうと楽天的であろうと人間なのだ。故祖母が馬鹿になりなさいという。これが難しい。馬鹿にされるのはよくある。風土と FOODこれ詰まりは文化とか性分、気質とか個性はなるようになっていて当たり前と気づくも易しいことではなくて、それで通用するのが手間取る曲者なのである。それも余りに人間的な事情で吐露できるから行き詰まらずに付き合える自身の有様で、そこに感嘆する。追記拡散したくなった。東京新聞の<書評>抜粋「もはやアメリカの文化やビジネスの一部と言って過言でない」「同盟国日本にとっては最大のリスクで、不必要な戦争に巻き込まれる恐れがあります」ところで苫米地バンコールは通貨の安定には妙案で移行も可能だが交易の必要な資源に乏しい地域では法定通貨を老廃物本位で発行配布循環させる二重の生活様式法定通貨の使途を寄付でバンコールに変換する参画が傀儡選挙よりも主権の意思が反映されそうだ。寄付を募るのが使途のアジェンダで決まっても人類学のマニュフェストを判別できよう、既得利潤に愛想ついた次世代への回避として要約する。小生は自衛陣地の世紀を過ごすだろうけれど希望として残す。

人類学

ヒトとヒヒ一文字違いの霊長類、人類学の必要を想う。幼少期から成人期のあわい欲望装置をまとう商品とその交換のあり方に野蛮を見据えたようだ。そのころは歴史考古学主義的人類学の系譜の中に有って故人の偉業を先達としていたのだろう。劣化のさなかモンパルニスの灯に広告に背を向ける画家だとか尊さがあり群れるヒトもあり、もはや経済大国は中国の1党独裁でその1党の理念への理解度が人類学になるのだろう。やがては軍管複合とか多国籍とか債務経済からの脱却がヒトを人類たらしめると想像する賭博債権の利潤で牽引するのも隷属させるのも愚の骨頂、科学というより知識の累積もくたびれて埋没する記録。記憶身体性でもって開拓する人類学再考の頃には土に帰るのか。残照もないSFの知的生命体の優位で目覚めさせたような虚構も通用しない現状なのだ。これまでの歩みがその中での虚構と隠蔽の解釈で社会化の人類的地平を限定するよりほかに、知らぬ存ぜぬで当たるぐらいしかなさそうなのだ。せめてここでカタルシス

敗北宣言

ヒトは生まれながらに出自で決定される運命でなく事実、ヒト社会をどう解釈しても国民という臣民になる。覇権競争の下で立場を探す、競争でなく協調には戦勝国基軸通貨も言語文化も優位性を維持する暴力の愚かさを受け入れるしかない。願わくばバンコール通貨と地域通貨で知的生命体らしく理解交流が多様への自然と認知してもどうなることか、バックミンスタフラーや星新一の自己規律も有りはしない。所詮この日本語星人には外の国は異国のままで留学も逃亡もない、円安は止まらない。民主化に成功したらしいが傀儡政権統治の無能に合わせる臣民である。大衆の中での陣地を社会化の中で模索するのが関の山だ。有色人と白人の主従関係が変わらない。古代中世と近世近代の虚構の先にイマがあるヒトは最長120歳月が限界で記憶身体性をもって生涯とするなら賭博と計量可能な領分の棲み分けくらいしか選択の余地はない。計量可能な領分は機械の得意分野で競争にならない。生き物として知的生命体には現状把握できると失敗も含めて調整ができると信じたい、そもそもの生き物の住処が壊れていくのに加担する加速させる消費者であるのだからもはや敗北している。五百字要約呪物崇拝

旧帝大経済学の喪失感

マル経と近経に分離していたいずれにせよたこ壺のごとく、社会科学と思っていた国民義務教育的延長では分別もなく右も左も分からない。道に迷うのが当たり前だろう。賭博的近経とその数字信仰やら記号抽象運用力などくだらないから中退した。全てが地となり骨となる頃にも性急に結論をだした。いざ社会で働くに現状が不案内で頼りの両親もそれぞれの心情がつかめず、やはり働いてもスッキリしていない。仕事に没頭するもなにか手応えがない。思惑道理の納税消費者なのだ。奉仕とか誤魔化しても骨折り損で方針が決まっても上手く行かないで紆余曲折、職人に憧れたり失敗ばかりだった。相変わらず世間一般とも違いが有って自己規定もブレてそうだ。高度って経済って崩壊の工程に邁進して。建設は破壊であり破壊は建設である。時計が利便性の道具として協同的に用いる。