tadkgwの雑多

おもいっきり311文字

国家論または家的国際(アイデンティティ)への疑問

国はその際内での公民の統治とその際外との関わりの交渉に概念規定される。家は公民のその識別を前提として非統治の生活協働の組織となっている。統治概念規定が管理の不可視で教化される。とすると、教化の対象化は民族文化慣習が風土その偏見の塊としての常識に育つ。対話の表現技能が主に数値と言語の学習から始まり解像度の共有を強いる。日本語星人としてその宗教性も含めた風土をどう活かすかは、もはや神話伝承記録に立ち返れないイマがある、教科書的時系列の興味本位の理解ではなく史的記録が判断を誤らせる、正確にはイマも変わらぬ知るべき体験的知識と共有可能な資源が欠如している。USA追従の保護国での民主主義など、ましてや新自由資本の多国籍で基軸線審の既得資源の源泉による統治など陰謀論ではなくとも納得できない。承服従順な臣民は家的同族同調圧の国の消費納税者で官吏は強しですませれない党派代議の愚に追従できない。その党派性は須らく虚偽のにんき栄華の行き詰まりを軸としている。果たして現況で生命の術に注力する、その資本は個体でありそれらの関係性による、さらに個体の生命の生活様式を意識してその装備品を点検すると交流のための道具と生体維持の必需を共有または発生させないことには持続できない。例として電話は特定小型無線機で十分なこともある。社会的費用が馬鹿馬鹿しいスマートという玩具は旧来の移動にも当てはまる。故宇沢氏のコモンズの如く身辺周囲の見直しから始める。それは史的でも権威でも尺度にならない根源の欲求なのだ。そう国に囚われない、つまり家や世代にも協働が最善で理解を前提に対話する礫となる個体から多様へ回顧と展望が続く。まずは国内での砦と陣地戦で権力を取らず生の政治、社会的生物ヒトへの回帰と結論する。家的国際への疑問が宇宙内存在の特徴を把握させるのだという論です。家的国際が王権神授なら絶対的階級文化の亜流的変種だろう、そう思うものも非暴力装置を前提として自由放任の多様。収斂する国際が分岐の対立軸となり防衛と競争を生む。風土は人類学であり発生と豊富な交流を促す。国際収支は対立浪費で略奪文明の成れの果ての方法の体たらく、知識共有拒否の隷属ありきとも言う。ついでに寄生獣が面白い、この頃。