tadkgwの雑多

おもいっきり311文字

「ささやかな幸せ」

テレビを観ないこと、それで感情移入の誤魔化しに浸らずに住む。身の回りでの感触を表現する。例えば、エレベータの車椅子印のボタンの配列と配置が自分にも適していると気づく、それが普通で標準的なのではと思える。年老いれば快適さに敏感になる。老廃物本位の交換価値尺度が当たり前になり、老廃物やら循環が外的対象と関係し人工と天然がその工程で活動と結びつき発生と消滅が通過する。無から有は生まれない。さてメタバースの可能性について空想すると、実行には労力がいる誰かがするだろうとして領域の拡張の前に、そこに在る素材または資源が把握されているとして領域の改良と素材の投入が実際の解析を基になされる、マルサス人口論ではないが、口が増えると、満たせる素材は何かが模索できる、人類学ともいえる。それは人工知能の探求から目標設定される。戦争好きの分析も原因の追求も同様に明示される。その環境が望ましいか、アバターの深層から世界の構築を仮想空間で行えば、その各様の文化が提示されるその理解と説明は解釈者と提示者との傍観者を生じ、傍観がやがて当事者となり文化の定着が地平を開く、メタバースが文化的生活に帰ってくる。通貨発行権威とかその複式簿記では計量の限界、時系列の制約と経緯の差分の修復が偏見の塊からの脱却が回帰をさせない、依然として旧態の継承の病と覇権の虜であるから無理筋と諦める。メタバースが虚無と逃避の創造に終末すれば、実体は計量の外的対象と看做せない。利害から理解へも遠い夢物語に終わる。潤うよりも憂いが残存する、このままでは。